管理人のコメント
八潮の電気火葬場跡地...管理人も非常に興味がありました。
実際の現況を渓流ファン様がレポート下さいましたが、ご多分に漏れず
再開発の区画整理真っ最中の模様ですね。かろうじて残る荒地に稼動時の
面影が感じ取れます。
実はこの再開発という公共土木工事ですが、自動車での営業を生業とする
私にとって恐ろしく厄介です。なにしろ道路の迂回や通行止めが半端ではない
のですから(汗)。特に、越谷、吉川の火葬場近辺は最悪です。目の前にある
目的地へ行くのに、数キロも迂回しなくてはならないなんて事もザラでした。
以下、渓流ファン様のレポート
*画像をクリックすると拡大画像が別ウィンドウで開きます。
以前、元祖通りすがり様がお教えくださった、
埼玉県八潮市、葛西用水沿いの都県境付近の水田中に所在したとされる「電気火葬場」の跡地です。
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開発が進み水田などすっかり姿を消した今日でもその場所と推察される一画は
空き地のままで、1メートルほどの高さに残土が盛られていました。
緑色のネットに囲まれた区画がそれです。
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空き地の奥行きはかなりあります。
空撮写真等で判断する限り、この写真奥のネットに囲まれた付近に
所在したのではと思われます。
ぐるりを細い池に囲まれた半分島のような場所に、電気火葬場と称される
その小さな施設はあったもようです。
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跡地と推察される場所を裏(北)側から。
現在の所有者などは一切不明です。
周辺では常磐新線(つくばエキスプレス)建設工事が進められ、
この敷地も含めた大規模な再開発が行われる予定です。
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跡地の北方、わずか200メートルほどではつくばエキスプレスの
八潮駅の工事が進められています。
葛西用水と綾瀬川支流の垳川(かけがわ)の水利による広大な
水田地帯だった一帯も今は面影なく、
工場や住宅、資材置き場、荒れ地や畑などが混じりあい、
再開発に伴う区画整理や整地工事の為もあってどこか荒涼とした印象でした。
昭和40年代はじめごろまで、葛西用水に沿った埼玉県南部、東京都葛飾区などは
農村の面影濃い土地でありました。
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え〜、八潮のどこかに連中の拠点があることは、公安の広報やマスコミ報道等により
知っていましたが、まさかここの近くだったとは!
そういえば、連中も奇妙な「電気」火葬炉(ドラム缶+マイクロウェーブ発振器=粗雑な
電子レンジ)を兇悪な犯罪に用いてましたね。
あの連中、犯罪に走る前後に事業として「火葬場の運営(宗教法人には許される)」を
申請していたのだそうですが……。
とんでもないお話ですね。
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再開発の看板です。
かって都内にも隣接する埼玉や千葉、神奈川などにも、統計上は100を遥かに越える数の
「火葬場」が所在していました。
この跡地も消えてしまったそれら数多くの施設のひとつなのでしょうね。
あらゆるものが移り変わりの激しい首都圏だけに、ほんの50年昔の姿を偲ぶことさえ不可能な
場所は数多いです。
我々の父祖たちの時代、どんな暮らしがあり、そして葬儀という場面ではどうであったのか。
すべて忘却の彼方です。
もはや知るよすがも無いまま、今の姿もほどなく失われ、次の姿へと土地も生活も装いを変えて
行ってしまうというのが現実なのかもしれません。
2/17 渓流ファン様による補遺
八潮市(元潮止村)の「電気火葬場」に関しての史料です。
出典は「八潮市史通史編その2・P280-281」です。
伝染病対策を発端とした火葬場だったようですね。
焼却対象に人体・斃獣(家畜)だけでなく、排泄物(伝染病患者の。
おそらくは汚物、布団家具携帯品等の遺品もでしょう。)も含まれて
いることがそれを物語ります。
「前沢式電気焼屍炉」なる詳細不明な炉を備えた日本初の電気火葬場
だったそうですが、大正8年(1919年)というと、東博ほかで重油炉が
そろそろ開発されつつあるという年代ですね。
結局、焼却時間とメンテナンス性・信頼性から、
軍配は電気炉でなく重油炉に上がった訳で、この火葬場はほどなく閉鎖
もしくは縮小されたものと推察されます。
敷地も2000坪という広大な面積を予定していたらしいですが、今に残る跡地
(空撮も)はずっと小さいです。
地主らとの交渉が結局失敗したのかもしれません。
重油炉で作っていたとしたら、どうなったのでしょう?
西方約2キロには谷塚葬祭場、東方には吉川や三郷の各施設(当時は集落の
簡易施設だったでしょうが)、
南方、葛西用水を下ってゆけば、川を越えてやがて四つ木斎場へと至ります。
当時の人口分布や人口密度などを考えると、正直、設立者たちの目論見は
甘かったようにも思えます。